正福院の歴史(2)

やなぎ稲荷いなり

正福院正面

 享保3年(1718)9月、當院開創に深く関わった望月貞久もちづきさだひさの子孫が見た夢の中に、洛東稲荷山(伏見稲荷)の神様が現れ「一顆の玉と弘法大師作の十一面観世音菩薩像を与えるにより此処に一社を建立すべし」とのお告げがありました。 それにより、伏見稲荷を勧請して、一社を當院にあった柳の木の下に建立したことにより「柳の稲荷」と呼ばれていました。

 

昭和20年(1945)の東京大空襲で堂宇どううのすべてを焼失し、焼け跡から黒ずんでしまった地蔵菩薩などが掘り出され、それらの石仏を柳の木があった墓地入口手前の塀際に安置しています。

 

本堂は昭和28年(1953)に再建され、ご本尊は焼失を免れた大日如来(金剛界)、正面向かって右側に弘法大師こうぼうだいし像、左側に興教大師こうぎょうだいし像を安置しています。

仏像

→正福院の歴史(1)