中興の祖 興教大師こうぎょうだいし 覚鑁かくばん

~空海から覚鑁へ~

kakuban 空海が真言宗を立教開宗してからおよそ300年後、空海が開かれた高野山は活力を失いつつありました。その頃、高野山に登られた覺鑁(1095~1143)は、伝法大会でんぽうだいえ★を復興しました。それにより多くの僧侶を輩出して高野山は活気を取り戻しますが、覺鑁は自ら紀州(和歌山県)根来寺ねごろじに移ることになります。保延6年(1140)に根来に移られた覺鑁は、空海の教えの振興をはかり、後に「新義しんぎ」といわれる教えを確立されました。真言宗智山派は、この「新義」に属しています。 このような理由で真言宗智山派は、空海を「宗祖」、覺鑁を「中興の祖」とお呼びしています。

 

やがて巨大な伽藍がらんと力を持った根来寺は、その力を恐れた豊臣秀吉によって天正13年(1585)に攻められ、ほとんどの伽藍を焼失します。そのときの高僧 玄宥げんゆう は京都の智積院に、もうひとりの高僧 専誉せんよ は大和の長谷寺に難を逃れ、それぞれ智山派ちさんは豊山派ぶざんはの基を築きました。また根来寺は、その後も残った僧侶たちに護持され、現在は新義真言宗しんぎしんごんしゅうの総本山となっています。

 

★伝法大会:真言宗の奥義を伝え授かる最も重要な法要